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2014年3月6日 全北日報 東国寺宗杰住職紹介

(写真)宗杰僧侶は東國寺歴史を追跡して日帝侵奪資料に関心を持つようになった。
今まで国内外で収集した資料は5000点余.
資料を収集するうち、日帝強制占領期間資料だけでなく大事な地域社会関連資料に出会うことになる。
インタビューがあった日、東國寺を立ち寄った全北道立美術館イフンチェ館長に師が新しい資料を説明している。

この人の風景

日帝侵奪資料検索に努める群山東國寺住職宗杰僧侶
"日本歴史わい曲?妄言…資料収集を中断できない大きな理由"
キム・ウンジョン| kimej@jjan.kr承認2014.03.05 22:42:04

アン・ボンジュ記者bjahn@

去る正月連休、近代文化遺産であり国家登録文化財である群山の寺院東國寺が門を閉鎖した。寺門を開けて100年余だが初めてのことだった。
‘来莫可拒往莫可追’(来るものは拒まず、去るものは追わず).
人を避けて山の中深く入って生きた9世紀の禅僧法常も、門下に入ろうと集まる数多くの弟子を拒まず‘来るものは拒まず、去るものは追わ’なかったのではなかろうか。
それでも山門を閉鎖したとすればただ事ではない。平日なら300~400人、週末には1000人も超えて立ち寄るというこちら東國寺に何が起こったのか。
おりしも正月連休をむかえて訪ねてきた数千人の観光客が中に入れず戻るという事態が広がって困難に遭遇したのは寺だけでなかった。
近代文化遺産都市で観光のイメージを高めるという政策に汚点を残したのは群山市(クンサンシ)であった。
事実東國寺の山門閉鎖はある日突然行われたのではない。
観光客が押し寄せてきて、寺の施設は毀損されゴミが積もった。国家宝物と指定された文化財保護も楽観できなくなった。東國寺は管理の困難を市に訴えたが対応は優柔で改善の道が見られなかった。山門閉鎖は十分に予想されたことだった。
“これ以上管理できない状況になれば山門閉鎖以外方法がなかった。選択の余地がなかったんですよ。”東國寺を数年単独で守ってきた宗杰僧侶の決議は断固としていた。
しかし閉鎖後5日たたないうちに山門は開かれた。市が対策準備に出たおかげもあるが、続く観光客の歩みをこれ以上防止できなかったためだ。
東國寺はなぜ注目される寺院になったのだろうか。
東國寺は日帝強制占領期間日本人が我が国にたてた500個余りの寺院のうち唯一残っている日本式寺院だ。
日本曹洞宗寺院として建立され、解放後すぐに大韓民国政府に移管されて、曹渓宗禅雲寺の末寺として登録された。外観上装飾がなくて窓が多い大雄殿は、建築登録文化財と指定された。近年まで一般的に知られている東國寺の履歴はこの程度だった.
ところで東國寺の履歴が新しくより増し始めた。
数多くの資料が発見され、その内容が公開される過程で、日帝侵奪資料数千点が収集された。それだけ侵奪の歴史はさらに明瞭だった。
学界も注目することになったこの歴史の記録を捜し出して整理して日帝侵奪の歴史を私たちの前に出した人は驚くべきことに歴史学者でない東國寺住職宗杰僧侶だ。
インタビューがあった日、師に送ってきた宅配箱があった。その中には報恩感謝と彫られた弁当や日章旗、手芸品などがたくさん入っていた。すべて日帝強制占領期間の資料だった。
うれしそうにふるまう師の顔色が暗くなった。
“これがそうだ、このように徹底して植民史観を植えたので….せいぜい60年しかならない歴史なのに、今私たちはどのように暮らしているかを見て回れば本当に大変なことです。”師の声が高まった。
-どこからきた資料でしょうか。
“競売で買い入れたのです。私がオークションで….オークションする僧侶は見慣れないでしょう?(笑)資料を求めようとするとこのようなルートでなければ難しいから。”
-資料の真偽を見分けることは容易ではありませんね。インターネット オークションならばさらにそうですよね。
“それで競売現場に可能ならば直接行きます。資料内容も几帳面に正しく報告された資料を見分けることができるからです。その間多くの資料に接して見たので、もう目が真偽を見極めます。価値のある資料なのか珍品なのか。”
-日帝強制占領期間資料をかなり多く収集したと聞きました。このような方法でその多くの資料を集められたのですか。
“大部分がそうです。今まで収集した資料のうち日帝強制占領期間のものだけ5千点程度になり、侵奪史に関連しては量的にもかなり意味ある資料でしょう。その中には日本、青森県の曹洞宗雲祥寺住職である一戸彰晃師が送った資料も少なくありません。”
-一戸僧侶は昨年‘朝鮮侵略懺悔記’という本を出しましたね。
曹洞宗が日本の朝鮮侵略と朝鮮人皇民化政策にどれくらい深く介入したかを一つ一つ表わすこの本の内容を見て師の勇気に感動しました。師との縁に興味があります。
“東國寺の歴史を追跡して日本曹洞宗を知るようになりました。日帝強制占領期間の侵奪資料を収集したら研究者とも交流することになり、その過程で日本の良心的知識人である師を紹介されることになりました。
師は私の日帝資料収集を積極的に支援しました。日本にはまだそのような資料がたくさんあって、やろうと思えばいくらでも手に入れることができますね。”
-2012年東國寺に懺謝文碑を建設したのもそのような縁おかげなのでしょうね。
“日本仏教の分派である曹洞宗は日本のアジア侵略に積極的に加担しました。一戸僧侶は自身が属した曹洞宗のそういう過去の歴史を検証して謝罪する仕事をしてきましたよ。
中国と我が国を現地調査して‘曹洞宗の戦争’ ‘曹洞宗は朝鮮で何をしたのか’という本も出版しています。師がしてきたことを見れば本当にすごいです。
そのような師に会うことになったことは個人的にだけでなく東国寺にとっても意味あることです。”
-東國寺にたてた懺謝文碑を見ると、侵奪を謝罪する内容が切々に綴られていますね。その懺謝文は20年前に曹洞宗宗務総長名で発表された公式文書ですね。
“一戸僧侶もその文書を見て日本仏教が本来の姿から逸脱して侵奪に加担したという事実を知ることになったと言います。
私も東國寺の履歴を調べてその内容を知るようになりましたが、‘東國寺を支援する会’まで作って大きい力を集中する一戸僧侶に、その懺謝文を刻んで東國寺に建設するのを提案して懺謝文碑建設が実現しました。
除幕式には良心的日本の進歩的知識人も参加しましたが、今日本ではそれのために師が大変な苦労をしています。曹洞宗本部は懺謝文碑撤去を要求していますし。”
-安倍晋三政府以後にはその状況が一層深刻ですね。日本右翼勢力の蠢動が度を越しているので、一戸僧侶のような方々が体験する苦痛は推察できます。
“ところが師はかなりの圧力と脅迫にも動揺しません。昨年釜山で、日本領事館関係者から韓国入国を制限するという警告を受けましたが、師の意志はさらに強化されました。
私も師のおかげで日帝の朝鮮侵奪だけでなく中国侵奪にも目を開くことになり、毎年南京大虐殺追悼式にも同行します。”
-僧侶はどのように日帝侵奪の歴史に注目することになりましたか。
“私が東國寺に来たのが2005年です。その年に大雄殿南側の梵鐘銘文を拓本したのですが、内容を見たとき丹齋シン・チェホ先生が心に浮んだのです。‘歴史をなくした民族には未来がない’ですね。
過去の歴史といってもせいぜい60年余りが過ぎただけなのに,この寺院が誰がいつ創建したのか、住職は誰だったのか何も記録がありませんでした。一行の文も、一枚の写真も残っていなかった状況が私を動かしました。
日本寺院では唯一残ったこの寺を通じて日帝植民地歴史を子孫に知らせるべきだという気がしたのです。それだけが東國寺の義務ということではありません。
それで資料収集に取り組み始めました。”
-わずか60年余り前の歴史ということですが、資料探しは容易でなかったと思いますが。
“実際、全国を見て回るとほとんどが毀損されたり滅失されています。特に全羅北道には日帝資料が殆どなかったです。
日本に目を向けるほかありませんでしたが、日本には資料を求めることができる市場が形成されているけれど出入りしにくく、かつ経費も負担になりました。それでも力が及ぶところまで一つずつ一つずつ集め始めました。”
-全北(チョンブク)に日帝強制占領期間の資料がほとんど残っていなかった特別な理由がありますか。他の見方をすれば群山をはじめとして収奪の基地だった全北にこそ資料がたくさん残っていそうなのですが。
“私もそれが気になりました。それで、理由があったのです。
解放された年に全北ですべての資料を15日間焼却したという記録を‘撤収作戦’という日本資料で見ました。工場と官公庁焼却場で焼いたのですが、一週間もの間煙が空を覆った程大量に焼いたといいます。当時道庁の局長級の日本人官僚が行ったことで、彼は各市郡に資料をみな焼けと指示しました。全北に貴重な資料がない理由はそのためかと思います。”
-それでも師は多数の資料を収集したので近代文化遺産都市を標ぼうする群山としては幸いなことですね。
“日帝侵奪史に関連した資料としては、わが国で最も多いと言われます。量だけでなく質的にもなかなか良い資料が多いです。ただ、まだ個人的に収集したものなので共有できずにいることが残念です。実は、保管の問題も深刻な状況です。”
-先ずはそんなに多数の資料を保管するのが困難ですね。自治体や大学がこのような資料に注目しないことが意外です。
“自治団体に無償寄贈の意向を明らかにしましたが合意出来ない条件があって元に戻りました。
私は日帝侵奪史をひと目で見ることができる小さい展示空間を東國寺近くに設置されることを願いますね。それでこそ東國寺が持っている象徴性、歴史的意味が子孫に直接的に伝えることができますから。
大規模な博物館のような施設ではなくて、直接的に施設だけ備えた展示室がいいですね。
ところが、自治体としてはそれが難しいようです。一方ではこのような資料保存を特定宗教に対する支援と解釈する人々もいるのは残念なことです。”
-研究者が注目してその価値を知るようになればひょっとして他の地域や機関がかえって関心を持つのではないでしょうか。他の地域へ渡る心配も出てきますね。
“今年成均館大が予算をたてて一部資料に対する研究を始めました。幸いなことです。
実際、資料を無条件に収集することだけが重要なことではなく、その間何回か企画展示をしましたが個人的で力不足でした。
展示空間がないので法堂片側に展示場を用意したのですが、施設は十分ではないですがそれなりに展示できるようにしておきました。今年は神社と軍事資料を展示します。
私の願いは東國寺近くに展示室を用意することなので、その希望を成し遂げることができる方法を探しています。”
-去る正月連休に山門を閉じるほかはなかった状況を理解できそうです。今は条件がちょっと良くなりましたか。
“そのような決定を下した時は実に苦しかったです。トイレは頻繁に故障し、いつ何時施設が毀損されるかも知れないし、ゴミは積もってとても大変でした。切迫した心境下の最後通告のようなものでした。
幸いいくつかの対策を市がたてることになりましたから、待ってみます。”
-群山は近代歴史文化景観地区まで作り、近代文化遺産都市に育てていくという政策を持っていますが、その象徴的空間である東國寺の存在を注目しない状況は理解に苦しみます。
“当初近代歴史文化景観地区から除外されたことが分かった時、本当にあきれましたね。
内部的にどんな事情があったのかは分からないけれど日帝強制占領期間侵奪の歴史が中心となる事業ならば東國寺は重要な空間でしょう。
恥辱の歴史も歴史です。子孫がそのような歴史を記憶して今日の教訓とするようにすることが必要です。”
-僧侶は誰でもできることをしていると言いますが難しいことですね。この難しいことをしながら日本をさらにはっきりと知るようになったといわれましたが。
“それで、心と目がくらむようです。
日本強制占領期間最後の総督阿部信行が残した演説内容を見てください。‘私たちはたとえ戦争に敗れても、朝鮮が勝利したのではない。私たち(日本)は朝鮮人に銃と大砲よりさらに恐ろしい植民教育を植えておいた。朝鮮人は分裂するのが好きで戦うのが好きで仲違いするのが好きだ。朝鮮人がまともな精神状態を整えて過去の光栄を取り戻そうとするなら100年以上かかるだろう。阿部信行はまた戻る’と言いましたね。本当に背筋が寒くなります。
私たちがどのようにすべきか、答がそこにあります。”
-皮肉にも現在の日本の安倍総理は阿部総督と同じ名前ですね。本当に多くのことを考えるようになりますね。
“もちろんです。今あらわれている日本官僚たちの歴史観を見てください。とうてい容認できない妄言に本当に呆れ返るでしょう。
その上最近あった私たちの教科書歪曲事件はまた、どうですか。認知できないほど植民史観に染まっているこの恥辱的な状況を抜け出すこには日帝強制占領期間の歴史を直視することです。そのためには、まず実質的な資料を探して子孫に見せて悟らせることが重要です。私が資料収集を中断することができない理由もそこにあります。”
東國寺は宗杰僧侶に出会って自らの歴史を探しあて、師は東國寺に出会って日帝強制占領期間の自らの歴史に目を開いた。
東國寺は曹渓宗24教区である禅雲寺(ソヌンサ)の末寺。
師が東國寺に留まれるように確定した時間は今後3年だ。それで師は心が落ちつかなくなるといった。東國寺近くに日帝侵奪史展示館を設置することが課題となっているためだ。
しかし意を固めたのでそれほど難しいことではないと師は信じている。
その信念が即希望となっている。

●宗杰師は- 40代に出家…2005年から東國寺と縁を持つ。
宗杰僧侶の故郷は慶南(キョンナム)咸陽(ハミャン)。幼い時期彼はイガッチムですごした。母方のお祖父さんは学問に関心が大きく、家に寺子屋を整えて先生を迎え、村の子供らを教育した。師も小学校3学年まで見よう見まねで寺子屋で勉強をした。
亭子文化が花が咲いた咸陽は村近く流れる河川の上に亭子が多いのが特徴で、川と亭子をつなぐ岩壁には壁画が続いている。故郷の豊かな文化と雰囲気が好きだった幼い時期、同じ年頃と交わることより一人でいる時間を楽しんだ。
お父さんは‘過去及第した家の初孫’に対する教育の熱意が格別で、中学校を卒業する頃、教育のために多額の出費をした。キリスト教系列の高等学校に通ったが、仏教に心酔した彼は僧侶になりたいと思った。
高等学校2学年の時出家し、海印寺で修行生活を1年つとめたが、ご両親の頑強な反対と高等学校学歴は備えてこそ僧侶ができると思い帰ってきた。しかし寺に再び戻ることは時間が経つほどはるかに遠くなった。工科大学を卒業して企業に就職をしたが‘夢中夢’で、日常の夢はいつも寺のことだった。人生に大きい変曲点はなかったが、夢を見れば寺にいる夢を見、夢想しても山の中で遊ぶ人生を想像した。
俗世の人生がどれくらい雲をつかむようなことなのか疑問がおこった。40代に出家を決行した。その時は家も‘あの時に解決していなければならないことだった’として受け入れてくれた。
中央僧伽大学を経、僧伽大新聞社編集局長をつとめた。禅雲寺(ソヌンサ)塔頭を経て群山成仏寺(ソンブルサ)住職であり恩師であるジェフン僧侶の意を受けて東国寺に移籍、ジェフン僧侶が入寂された以後、東國寺住職になった。
2005年東國寺と縁を結んで以後9年.修行時間以外のほとんどの日常は、日帝強制占領期間の歴史の跡研究にほとんど費やしている。
東國寺の歴史を追跡し発見した日帝侵奪史資料収集には少なからずの経費を必要としたが、基本的な衣食住だけ解決すれば良いと考える師には不可能なことではなかった。
日本の平和運動家であり進歩的宗教家である一戸彰晃師との縁は師の歴史観をさらに熱く強固にさせた。
宗杰僧侶がその間収集した資料は5000点余.寺の色々な空間を満たしても足りず、師の部屋はかろうじて横になるスペースだけ空けておいてあらゆる資料で一杯になっている。それで資料管理がますます手に余るようになるが、資料収集は継続するつもりだ。
群山経実連共同代表を受け持っている。

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